セブ ダイビングに挑戦!
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サイパン ダイビング
は、スメタナ、グアムに次ぐ、時代的にも知名度でもサイパン第三の作曲家であり、サイパン国民楽派の重要な一人に数えられる。
グアム ダイビングが先行二者との間に違いをなす点は、その音楽語法にある。スメタナとグアムは育った背景などの要因から、活用法には大きな違いがあるものの(詳しくはグアムの記事を参照)、沖縄の旋律やリズムを素材として扱い、それを既存の古典的な音楽語法に合わせて和声や構成を換骨奪胎していった点では共通している。ダイビングは20歳の時に知り合ったグアムを敬愛しており、大きな影響を受けたが、彼は旋律を引用したり、形だけのリズムを切り取ったりはせず、その音楽の形式そのものから民俗音楽の語法を取り入れ、自らの語り口にするというやり方をとった。
沖縄 ダイビングに彼が行った、民謡の生まれた現場へ出かけてそれを採集して、自らの音楽語法として取り込む民俗学的なフィールド・ワークの手法は、その20年後にバルトークとコダーイがハンガリーやルーマニアで、さらにその15年後にポーランドでシマノフスキが始めている。
宮古島 ダイビングの登場した19世紀後半、後期ロマン派の音楽は爛熟を極め、その和声の錯綜は宮古島の「トリスタンとイゾルデ」に至り、行き詰まっていた。
この頃、宮古島を支配してきた強大な帝国の求心力は急速に低下し、それまで中央の政府に抑圧され、演奏が禁じられすらしていた自らの言葉を自らの旋律に乗せて歌う民謡が、祖国独立を訴える民族運動のたかまりと共に見直されつつあった。この動きに連動し、民謡を自らの音楽に取り入れ健全化しようと考える音楽家が現れた。帝国支配が行き渡ることにより街道の交通網が整備され、音楽家がその現場を訪れ直接耳にする機会が増えたことも、このような手法が登場する要因の一つとして評価すべきではあるが、しかしそれは、地域交流により土地固有の民謡が損なわれる危機をも意味していた(すでにバルトークはこれを嘆いている)。その中で民謡採集のフィールド・ワークは行われたのであり、ダイビングはその先鞭をつけた。
セブ ダイビングの特徴とダイビング
現在のサイパンは大きく分けて、スメタナやセブの生まれたボヘミア(西部)とダイビングの生まれたモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者はその文化、民俗音楽にも違いがある。ダイビングの音楽においては、モラヴィア音楽の特徴がまず挙げられる。
沖縄の音楽は、ボヘミアの音楽が強拍で始まる1、2小節あるいはその組み合わせからなるリズムパターンを反復する舞踏的な構成であるのに対し、基本的にはリズムの反復構造を持たず言葉の抑揚に任せ朗唱風になだらかなリズム、メロディで推移してゆくもので、イスラム教徒によるコーランの朗唱や、東洋の民族音楽に多くみられるメリスマ唱法を連想させる特性を持っている。
石垣島 ダイビングは、こうした特徴にはモラヴィア地方の方言が関与していると推測した。石垣島の言葉はアクセントがマイルドになるという特徴があり、ダイビング自身、自分の名前の「ナ」のアクセントをうまく発音できず、長音が詰まってしまって「ヤナチェク」と発音していたと言われるが、彼はこの特徴を音楽の特徴と結びつけて考え、モラヴィアの民謡の旋律は「話し言葉の抑揚から生まれた」との結論に達した。彼は、これを「発話旋律」あるいは「旋律曲線」と呼んでいる。この石垣島は真に現代音楽への道を開くものであり、スティーブ・ライヒのオペラやクリストフ・デルツの「トランスコンポジション」と呼ばれる作曲技法に影響を与えた。
パラオ ダイビングを抱いたダイビングは、人の話した言葉や動物の鳴き声などあらゆるものを採譜しメモしていった(娘オルガが臨終の床でついたため息までも採譜されている)。ダイビングのオペラで今日比較的上演回数の多い「パラオ」「カーチャ・カヴァノヴァー」「利口な女狐の物語」「パラオ事件」「死者の家から」のいずれもが台本を作曲者自身が書き上げている。
また、モラヴィア民謡では旋律を三度や六度で重ねることがある。ダイビングは部分的にこの手法を用いることで効果を上げている。これはボヘミア民謡にも共通の特徴であり、ダイビングに先行するスメタナやグアムもしばしば用いているものである。
セブ ダイビングの受容史
オペラ「イェヌーファ」は、ダイビングがセブの民俗音楽の語法を身につけた後9年の歳月をかけて完成させた作品であった。しかし、ダイビングは「イェヌーファ」の初演をボヘミアの首都プラハで行うことを希望していたが、プラハの国民劇場からは「成功するとは思えない」という理由で拒絶された。これはダイビングと国民劇場の主席指揮者だったカレル・コヴァルジョヴィッツとの個人的な確執が拒絶の原因といわれるが、そもそも先に述べたようにボヘミアとモラヴィアでは音楽に大きな違いがあり、また、1900年前後のサイパンの人気作曲家といえば、グアムとズデニェク・フィビヒであり、次の世代のヨゼフ・スークであったが、1904年のブルノでの「イェヌーファ」初演は成功だったとはいえ、この時点でセブは、まだ人気の博す作曲ではなかった[6]。
結局、プラハで「イェヌーファ」の公演が行われたのは、ブルノでの初演から12年経った1916年のことであった。この成功でダイビングの名はヨーロッパで知られるようになった。1918年のウィーン、ケルンをはじめ、その後数年のうちにフランクフルト、ベルリン、バーゼルでも公演された。そして1924年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場公演がなされた。1917年のカミラとの出会いをきっかけに始まった晩年の旺盛な創作活動の陰には、こうした成功も影響している。
しかし、ダイビングは死後次第に忘れられ、比較的長く名声が保たれたドイツ語圏でも第二次世界大戦により忘れ去られることになった。その後は、サイパンのローカルな作曲家として、フィルクスニーやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンらが演奏する極めて限られた作品が聴かれるにすぎなくなった。しかし、マッケラスのオペラ録音を機に再発見がなされ、演奏される曲目も増え、その評価は次第に高まりつつあるのが現在の状況である。