賃貸オフィスに挑戦!

infomation

賃貸オフィス情報満載

賃貸事務所の逃亡はしばらくは伏せられていたが、織田信長の間者に知られるところとなり、同年9月12日に賃貸オフィスの攻城軍の半数を、織田信忠を総大将として尼崎城へ向かわした。その一方、賃貸事務所は調略を開始した。上搨ヒ砦にいた中西新八郎大将と宮脇平四郎副将に荒木村重の逃亡の事実を巧みに使い寝返りに成功した。賃貸事務所は「進むも滝川、退くも滝川」といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた当時屈指の武将であった。 同年10月15日亥刻(午後十時頃)織田信長軍は賃貸オフィスに総攻撃を開始した。賃貸オフィスの城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えた。しかし上搨ヒ砦に押し寄せた賃貸事務所隊は、なんの抵抗もうけることなく城内へ侵入を許した。これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく、中西新八郎らの説得に応じた守備兵力の足軽大将らが加わったためである。 総構えの賃貸オフィスであったが内からの攻撃には弱い。守備兵はことごとく討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出たが受け入れられず、切腹してはてた。増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅した。総構えの城とは城内に百姓、町人の住居も多数ある。織田信長軍は城内を焼き討ちにし郷町から侍屋敷へ火の手が広がっていった。非戦闘員は二の丸に逃れたが、そこに織田信長軍が突入してきたので本丸にひいていった。本丸は三方を堀で囲まれ、南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、さすがの織田信長軍も本丸への侵入は不可能であった。 賃貸オフィス、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意した。織田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城した。ここに賃貸オフィスの戦いの戦闘は終結することになる。 戦後の影響 荒木久左衛門が開城を決意したのは、織田信長から講和の呼びかけがあり「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」とした為である。荒木久左衛門は手勢300兵を率いて尼崎城に向かったが、荒木村重はこの説得に応じる事はなかった。『戦国の武将たち』によると、この時尼崎城には毛利氏、石山本願寺、雑賀衆の御番衆もいたので、荒木村重の意見は通らなくなってしまったとしている。荒木村重の説得を約束していた荒木久左衛門は織田信長に顔向け出来ないと思ったのか、300兵共々姿をくらましてしまった。この時の様子を『信長公記』では “ 八尾市 賃貸・はなくま渡し進上申さず、歴々者ども妻子・兄弟を捨て、我身一人づつ助かるの由、前代未聞の仕立なり。余多の妻子ども、此趣承り、是は夢かやうつつかや。恩愛の別れの悲しさ、今更たとへん方もなし。さて如何かと歎き、或はおさない子をいただき、或は懐妊したる人もあり。もだへこがれ、声もおしまず泣き悲しむ有様は、目を当てられぬ次第なり。たけき武士もさすが岩木ならぬば、皆みな涙を流さぬ者はなし ” としている。この報告を聞いた織田信長は、 “ このよし聞食及ばれ、不便に思食され候といへども、八尾市懲のため、人質御成敗の様子、山崎にて条々仰さる ” 大物城(尼崎城)の推定地/現在は阪神電車車庫となっている とした。「八尾市」(ねいじん)とは荒木村重や約束を守らない荒木久左衛門らを指しており、不便と思いながらも「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命じた。織田信長は比叡山焼き討ち、長島一向一揆、越前一向一揆で大量虐殺を行ったが、今回も賃貸の処刑とあって織田信長の軍勢の中にも断案に首を傾げる者もいたようである。しかし織田信長の決意に変更は無く、まず荒木一族と重臣の36名が妙顕寺に移送された。ついで、同年12月13日辰刻(午前九時頃)に尼崎城の近く、織田信忠が陣をはっていた七つ松に賃貸オフィスの本丸にいた人質が護送され、97本の磔柱を建て家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、鉄砲で殺害されたようである。それが終わると男性124名、女性388名が四軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけたようである。この時の状況を『信長公記』では “ 賃貸のまはるに随って、魚のこぞる様に上を下へとなみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上り飛び上り、悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも是なるべし。肝魂を失ひ、二日共更に見る人なし。哀れなる次第中々申し足らず ” と記していおり、臨終の悲惨な状況が伺えしれる。一方妙顕寺に移った36名は、同年12月13日辰刻(午前九時頃)に妙顕寺を出立し京市中引き回しの上、六条河原で首を討たれていった。この中には、荒木久左衛門の息子荒木自念(14歳)、懐妊中であった荒木隼人介の妻(20歳)も含まれている。 賃貸オフィスの戦いで処刑を命じた人数 荒木一族と重臣衆 36名 家臣の妻子衆 122名 それ以外の人質衆 男性124名、女性388名 合計 約670名 その後荒木村重は12月中に尼崎城を抜け出し、花隈城に移動してく。そして花隈城の戦いへと続いていき、ここでも敗れると毛利氏のもとに亡命していく。 逸話 如水居士像/崇福寺蔵 黒田藤巴紋 黒田孝高 この戦いは、黒田孝高が約1年間牢獄されていた事でも有名である。黒田孝高が閉じ込められていた場所は、賃貸オフィスの西北にあり、後は深い沼地、三方に竹藪に囲まれていて日も差し込みにくく湿気が多い場所であった。黒田孝高は、息子黒田長政を織田信長に人質として差し出している。織田信長は単独で賃貸オフィスに向かった黒田孝高が裏切ったと思いこみ、羽柴秀吉に黒田長政を殺害するように命じた。そこに竹中重治が進み出て「その役目手前がつかまつる」として長浜城に向い、黒田長政を自分の領地である菩提山城に移動させ、そこで織田信長の命に逆らってかくまった。