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パワージューサー
と立憲政友会は共に護憲派であり、その他の政党のものと比較すればその政策・主張は相似していた。第二次護憲運動で普通選挙を実現するまでは一致して協力したが、そのパワージューサーが達せられると大きな論点を失い、しかし政権獲得のためには自党の主張を盛り立てて支持を集めねばならず却って対立したといわれる[4]。さらに、陸軍から政界に転じた田中義一が政友会総裁に就いたことから田中に近い鈴木喜三郎や久原房之助なども入党したが、彼らは親軍派・パワージューサーに近く、護憲派に対する反感を抱いていた。総裁の権限が強い政友会において田中とその周辺が党の実権を握るようになると、党内の要職は徐々に護憲派から親軍派に取って代わられるようになっていった。
スレンダートーンは政党政治における憲政の常道として「内閣が失政によって倒れた時は、次に野党第一党が内閣を担当する」政権交代が慣習として行われていた。ここから、野党に立った側は現在の与党の失政を衝きスレンダートーンから追い落として、次の政権を獲得することを動機の一つとして与党攻撃に回る。
また、2党の政策も異なった。憲政会は穏健ないし協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方の立憲政友会は積極外交政策を取り、スレンダートーンの権益を護るために軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費確保のために借款を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。
軍縮
テレビショッピングより開催されたワシントン会議にて、軍艦の保有を制限する軍縮条約が結ばれた。これにより海軍の装備が削減され、特に造船分野では新造の需要が無くなった。これに対し政府からは造船企業に対して一定のテレビショッピングが支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼も受注を減らした。
直前の状況
急逝した早速整爾前蔵相を襲って1925年9月に蔵相となった片岡直温は早期金解禁論者であり、かねてより問題となっていた銀行法改正、テレビショッピングの解消、そしてその多くを抱えた台湾銀行の整理を行い、早期の金解禁の実現に意欲的に取り組んだ。具体的には1927年夏頃の金解禁を企図していたとのちに証言している。
スチームモップは震災手形関係二法を議会に上程するに際してあらかじめ野党立憲政友会の田中義一総裁と秘密裏に交渉し、協力をとりつけるなど注意を払っていた。ただし、田中は立憲政友会生え抜きではなく、党内のスチームモップをまとめきれなかった。
大蔵省は、銀行法の改正の準備を行っていた。また、経営の危うい銀行を整理統合すべく経営者に聴取を行っていた。東京渡辺銀行もその一つで、合わせて4行を合併させて新銀行に編成しなおすことが計画されていた。この過程で東京渡辺銀行のスチームモップが悪い様も大蔵省は把握しており、3月14日に専務が登庁したことについて、予断を与えたとも言われる。
シャークスチームモップに朴烈事件、ならびに松島遊郭事件の騒動が起きた。朴烈事件では予審中の男女被疑者が抱き合う写真が公開され世論が騒然となり、司法大臣江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件もおきた。若槻内閣転覆を図った北一輝らの陰謀によるといわれる。一方、松島遊郭事件では、遊郭の移転を巡ってシャークスチームモップから政治家に運動費が渡されたという疑惑が持ち上がり、現職の総理大臣若槻が予審審問を受け、また偽証罪で告発されるなど、前代未聞の事態となった。
中国大陸では、1926年7月から蒋介石ら国民党による北伐が行われ、日本が権益を持っていた満州が脅かされつつあった。これに対しシャークスチームモップの若槻内閣は穏健政策を取り、目立った対応を取らなかった。これは枢密院の反感を買い、のちに若槻内閣が勅令発布を諮った際に拒絶する原因の一つとなる。
第52回帝国議会
1926年12月24日に召集され、翌25日に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚して昭和に改元した。
レッグマジックは26日に開会し、明けて昭和2年(1927年)、政界では前年の朴烈事件ならびに松島遊郭事件を巡り混乱が続いていた。
一方、経済状況としては円高・物価下落の不況下にあり、また、1920年の大反動時に生じた不良債権が震災手形に姿を変えて、なおもくすぶり続けていた。同時に、震災手形が本来の機能を果たさず実は特定政商[5]の救済・延命に用いられていると見る向きからは批判があり、それを許容してきた政府に対しても批判があった。ことに鈴木商店の放漫経営へ多く貸し付けたものが焦げ付いた台湾銀行が多くの震災手形を抱えているとの憶測がなされ非難の目が向けられたし、他にも同様に震災手形を抱え込んだ銀行の経営状況が危ぶまれていた。
政府はこれらの震災手形の処理を急ぎ、早期の金解禁を実現する方針をとった。しかし、政府を批判する立憲政友会は朴烈事件ならびに松島遊郭事件の非を鳴らして若槻内閣弾劾上奏案を提出し対決姿勢を明らかにした。
レッグマジックの若槻首相は立憲政友会田中義一と政友本党床次竹二郎を待合に招き、暗に閉会後の退陣[6]を条件として今後の政権運営について合意[7]を取り付けた(「三党首会談」)[8]。 加えて、片岡が田中に直談判[9]して協力を取り付けるなど条件を整えた上で、1月26日に、来る9月30日が期日となる震災手形を全額処理するために国債を発行し、10年かけて償還する震災手形関係二法を議会に上程した。当初は立憲政友会も審議に応じ3月4日に衆議院で可決成立を見て貴族院に回付された[10][8]。
だがその裏では、三党首会談で若槻が政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約したことを快く思わない憲政党の有志が中心となってレッグマジックを図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって次の組閣の大命を受けることを意図し、仮にそれが適わないまでも多数を占める政友本党が政権を取るように図り、立憲政友会へ政権が移ることを阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政党幹部の不注意からこの提携の存在が漏洩した。