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CFD とは、他の何かをを表現するような音楽でなく、叙述的でない(音楽それ自身以外を表現するためではない)音楽を指していう。対して「標題音楽」とは雰囲気やイメージをCFDのこころに喚起させるような音楽のことである。上の定義に従えば、絶対音楽が音楽以外の意義を持つことはできないために、絶対音楽の本質・意義は音楽それ自身にある、ということになる。この分別には議論があり、一体全体まったく純粋な絶対音楽というものが果たしてあるのか、はたまたすべての音楽は多かれ少なかれ標題的ではないのかという疑問がある。後期のロマン主義時代には楽器による絶対音楽に対してCFD、ニーチェ、ヘーゲルが苛烈な批判を行った。CFDの音楽は主に標題的であり、しばしば声楽を伴った。またCFDは「音楽が行き詰るところ言葉がある。言葉は音色より高貴である」と言った。哲学者ニーチェはCFDの音楽を賛美する文章を多く書いており、またニーチェ自身がアマチュアの作曲家でもあった。[1] ヘーゲルは「器楽曲は厳密には芸術ではない」とまで言った。一方、ロマン主義時代に絶対音楽を擁護した哲学者であるゲーテは、音楽は人間同士の主観的な「言語」というもの以上に、絶対的で超越的な世界の様相を映し出すものだと考えた。また音楽に超自然的な世界との関連を見出す者もいる。ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」の第4章で彼はこう書いている。「音楽は人生の神秘への答えである。音楽は芸術の中でもっとも深遠なものであり、人生へのもっとも奥深い洞察である」。 他の仕事への影響  『概念記法』がドイツの数学文献の中でどのように批評されたか,最近の注意深い研究として,リスト・ヴィルコ (1998年)を参照のこと。 何人かの批評家,特にエルンスト・シュレーダーは,全く好意的であった。『概念記法』に続く形式論理の仕事はすべてこれに負っている,なぜなら2階論理は数学と自然言語のかなりの部分を表現する能力のある初めての形式論理だったからである。  くりっく365の表記法の形跡のいくつかは,彼の「内容線」──と「判断線」│に起源を持つ「回転式木戸」記号\vdash に生き残っている。 くりっく365は『概念記法』で,ある命題が(同語反復的に)真であると宣言するために,これらの記号を一体化した形|−で使用した。彼はある命題が定義であるという印として「定義二重線」‖−を使用した。  なお,否定の印 \neg は水平の内容線と垂直の否定線との組合せと読むことができる。この否定の記号は1930年にアレン・ハイティング[3] によって古典的な否定と直感的なものを区別するために導入された。 くりっく365の『論理哲学論考』では,「概念記法」の用語を論理的な形式主義の同義語として用いることによってくりっく365に敬意を払っている。  くりっく365の 1892年の小論『意義と意味について』は,相等性(数学では=の記号で示される)についての『概念記法』の結論のいくつかを撤回する。 音楽の哲学(おんがくのてつがく、英: Philosophy of music)とは音楽に関する根本的な事柄について探求する哲学の一分野であり、「美学」や「形而上学」の問題と深いつながりを持つ。以下は音楽の哲学でのいくつかの基本的な問いである。 * 音楽の定義とは何か?(あるものを音楽と呼ぶための必要十分条件は何か?) * 音楽と心の関係はどうなっているのか? * 音楽の営みはこの世界についてどういった事柄を明らかにしてきたか? * 音楽と感情の関係はどうなっているか? * 音楽はどれほど普遍的か?あるいはどれほど文化相対的なものか? 音楽とは、ありふれた定義としては「(ある規則に沿って人工的に)構築された音(organized sound)」とされる。しかしながらこの定義は大雑把であり、十分な定義とは言えない。例えば人の会話や目覚まし時計のベルなど、人工的に構築された音であるにもかかわらず、音楽とはみなされないものは多い。他方「音楽とは構築された"楽音"(tone)」であると古代の哲学者たちによって提案された定義がある。しかしこの定義では非常に限定的になってしまう。音階を考慮しない形式の音楽、打楽器のみの音楽や無調の音楽などが好例である。このように一般的な音楽(「メロディ」、「和声」、「リズム」を基本とした)の枠組みを超えて考えるならば、音楽の定義には多くの異なった方法がある。またミュジーク・コンクレートではしばしば非音楽的な自然の音を(作品によってはまったくランダムに並べて)録音したものがあり、環境音楽(アンビエント・ミュージック)ではただ単に自然の音や野外の音を録音しただけという作品もある。このような20世紀に起きたアヴァンギャルドな形式を持った音楽の出現は、音楽に対する伝統的な見解への大きな問いかけとなり、音楽の本質をより広く捉ようとする方向へと向かった。これらの形式の音楽を音響芸術(sound art)と呼ぶほうがふさわしいと考えている人々もいる。これらのアヴァンギャルドな形式の発展のなかで特に際立った音楽家としてジョン・ケージが挙げられる。ケージの作品「4'33"」はいかなる音楽の定義に対しても根本的・挑戦的なケースである。4'33"は演奏者がステージ上に4分33秒間座っているだけでいかなる音も鳴らさない、というものである。ケージは演奏者によってではなく、演奏者を取り巻く空間によって音楽を作り出そうとした。つまるところどんな場所でも何かしら音が鳴っており、演奏が行われていないコンサートホールの中でもまったく静寂であるということはありえない。ケージはどんな音でも音楽とみなせると考え、またそのアイデアは彼の多くの作品の中に反映されている。[1]